羅生門から学べること
芥川龍之介の『羅生門』は、仏陀の名言集(ダンマパダ)やキリストの聖書のように、不思議な魅力を私は感じます。
それは何かというと、
読む度に新たな気づきを発見できるのです
羅生門について
国語科ではど定番の作品で、ご存知の方が多いかと思いますが、ざっくり説明します。
北斗の拳のような世紀末な社会で、仕事と住む場所を失った主人公が、頼る人もいなく、明日からの暮らしのメドが立てられず悩んでいるところから物語がはじまります。
- このままだと飢えて死んでしまう
- もう盗み(悪事)をするしかない
- それ以外で、生きる手段がみつからない
- だけど、そんな覚悟も勇気も自分には持てない
このような状況下で、実際に盗み(悪事)を働いている老婆と出会います。
主人公は、彼女に悪いことをする理由を問いただします。すると、老婆はばっさりと悪を正当化しちゃうのです。
- 悪いことをしている人に対してする悪は許される
- 生きるために仕方がなくする悪は許される
これを聴いた主人公は、自分も悪を正当化できる状況だと気づき、盗人になる決心がつくのです。そして、目の前の老婆の着物を追いはぎして闇の中に消えていくという話です。
罪悪感がない悪ほど、タチが悪いものはない
今年、羅生門の授業をしているときに、新たに気づいたことです。
いかなる理由があっても
盗みは悪
正当化すると、罪の意識は薄れ楽になれます。だからこそ、正当化された悪ほどタチが悪いもんはないんちゃうかと気づきました。
悪を許す社会の末路について
力がないものが悪い
この理屈がまかり通ってしまうようになると、北斗の拳のような世紀末な社会になるのでしょうね。
私はそんなところで生きたくありません。自分の子どもや孫たちにも、そのような世界では生きて欲しくありません。
物質的な豊かさは、何がなんでも確保しなければならないと思います。
善良な人間が悪に手を染めだしたら、まさに世紀末
だけど、やっぱりいかなる状況でも、
悪は、正当化してはいけない
悪は悪だととらえることを、今年、羅生門から学んだことでした。
目黒区の5歳の女の子の虐待死について(追記)
ツイッターで、たくさんの方がこの件について発言されています。
私も同じ年頃の娘を持つ親として、この報道を知り、悲しく残念でなりません。
そして、いま、この瞬間も同じように、苦しみ続けている子どもがいることを想像すると、
何とかならんのかいな
って思うのです。
ひとりの小さな命は終わってしまいましたが、多くの人の心に訴えることはできました。
私はあまり生まれ変わりとか信じていないのですが、
愛情の反対は、無関心
平成の日本で、このような悲しい出来事が起こってしまいましたが、多くの人がこの子に関かわろうとする心を持っています。
そのことが、あの子にとっても日本にとっても、救いだなぁと私は思います。
悪に対しても、正に対しても
関心がなくなることが恐ろしいことだと思います。
以上、胃がん克服ママいずみでした。本日もお読みくださりありがとうございました。
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